1節 起
非常に気持ちの悪い夢をみた。
夢の中で俺は四肢がなく、胴体と首だけの俺がを台の上にベルトで固定されていた。
股や肩に痛みはないが、四肢の感覚がないという事に喪失感を覚えた。
顔には分厚くて固い革のような布で覆われ、目をひらいても真っ暗で周囲を伺うことはず、真っ暗だ。
顔の布地は口と耳のところに大きく穴があいていて、自分の呼吸する音だけが聞こえる。
俺はこの異常な状況に耐えられなくなり、必死に身をよじってもがいた。
しかし、胴体を括っているベルトは台に固く結ばれており、一向にほどける気配はない。
自分の置かれている状況が分からないが、夢の中の俺は身の危険を感じて俺は必死に身をよじった。
台の上で芋虫のようにグネグネと暴れていると、台と体が擦れる音が俺の右耳からは少し遠くから響いているが、左耳には近くで反響しているように感じた。
感覚的に左側に気配が突然現れるのを感じた。
俺は体が凍り、身をよじるのをやめてしまった。
細くて固い枯れ枝の様な物が耳の中に入っていく感触がした。
その枯れ枝の様なものは、まるで先端が耳の中を確認しているかのように、
俺の耳の中の凹凸を避けるよう曲がりながらゆっくりと奥に進んで行った。
やがて枯れ枝の様なものは、自分で耳かきをするときには掻くことを避けるほどの深部に到達した。
その頃、俺の体は恐怖と緊張にこわばり身じろぎ一つ出来なくなっていた。
当たり前だ、人間であれば自分の泣き所くらい知っているはずだ。
ついに恐れていたことが起こった、耳の深部を慎重に進んでいた枯れ枝の先端が「ジュリッ」という音とともに耳の内壁を抉った。
耳の中で熱いものが溢れ、俺は激痛が襲った。
激痛は背筋を駆け抜け、俺は叫び声をあげた。
顔がカッと熱くなり、俺は涙を流しながら「もうやめてくれ!」と右側の気配に嘆願した。
残酷な侵入者は内壁を抉ったことをまるで気にすることなく、あくまでゆっくりと耳の中をさらに深部に進んで行く。
左耳から音が感じられなくなったと同時に、また激痛が俺を襲った。
声にならない悲鳴を喚き散らしながら、俺は精一杯の力を振り絞り叫んだ。
「もういっそ殺してくれ!殺せ!殺せよ!」耐え難い苦痛に悲鳴を上げたところで俺は目が覚めた。
背中は汗でぐっしょりと濡れ、心臓はバクバクと音を鳴らし、動悸がいつまでたっても止まらなかった。
本当に最悪の寝起きだ。
あんな悪夢をみた原因は分かっている。
俺が越してきたこの6畳一間のアパートは玄関がコンクリートでできている。
2週間ほど前から、夜になるとコンクリートの下から「カリカリカリカリ」と、なにかが固いものをひっかく音が聞こえる。
一度聞こえ始めると短い時で30分程、長い時には3時間も絶え間なく聞こえることもあった。
寝始める頃に聞こえ始めたりすると、俺の夢見は最悪だ。
一度大家に相談しようかと思ったが、俺は2月に大学を卒業するのでこの部屋を引き払う予定なのでやめた。
大家に相談して大事になり、工事屋が家にやって来るなんてことになったら、あまりおもしろくない。
この6畳一間の俺の城に、他人が足を踏み入れられるなんて考えたくはない。
また、音の犯人は大体見当がついている。
おおよそ、床下に忍び込んだ野良猫が柱でもひっかいているのだろう。
この町内は誰か餌付けしているのかわからないが野良猫が多いんだ。
もしくは、進みの遅いもぐらが、一生懸命コンクリート下にトンネルを掘っている最中なのかもしれない。
我が城の領地を不意にやってきた訪問者だが、猫にせよもぐらにせよあと2か月ほどの共同生活である。
終わりがわかっていれば、かわいいものだ。
ここは人間様である私が妥協して我慢してやろうではないか。なはは。
大らかな心で共存者への理解を示したところで、おもむろに枕の右横にあった眼鏡をかけ、テーブルの上に置いてある目覚まし時計を見てみると、針は8時20分を指していた。
前日は徹夜明けに疲れきって寝たため、俺の中から時間の感覚がすっぽりと抜け落ちていた。
午前8時か午後8時かさっぱり分からなくなってしまっていた。
カーテンを開けると外は暗い。
この暗さならきっと午後8時に違いない。
部屋に置いてあるデジタル時計を見ると「12月24日 木」と表示されている。
ということは、大学の研究室の担当教官の示した私の卒業論文の提出まで、あと3日と5時間ほどしか残されていないということである。
憂欝だ。非常に憂鬱だ。あのクソ頑固で偏屈な爺め。なぜ私の論文を認めないのだ。
昨日、大学の卒業論文の提出期限に合わせて
俺をこんなひどい目にあわせやがって、いつか殺してやる。いつかあいつが通勤に使っている駅で、電車待ちをしているところをホームに突き落として殺してやる。
そもそも文学部の、しかもこんなFラン大学の生徒の論文に対して、どれほどの価値を求めているのか?
あのクソ教授、就職先の決まっている俺様の論文を予定調和ですんなりと受け入れればいい物を、忌々しい。
顔を洗い、服を着て、靴を履いても、まだ玄関の下から怪音がしていたため、俺はコンクリートの上で地団駄を踏みならした。
すると音は鳴りやんだ。
そのことを確認して俺は部屋を出て、夕飯を買いに町に向かって歩き出した。
2節 承
アパートを出て住宅街を抜け、やがて歓楽街に出た。
歓楽街のコンビニの交差点では、アジア系の中年女性が「マッサージイカガデスカー?オニィサン安クスルヨ?」と客引きをしていた。
非常に営業熱心である。
中年のおばさんをきっぱりと無視してさらに歓楽街を進む。
左右の5.6階建てビルの壁面には、キャバクラやパブのネオンが眩しい。
眩しいけど暗い眩しさだ。
まさに場末のキャバクラ。
風情があるね。
「お兄さん、今晩どうですか?」と尋ねてくるキャバクラのキャッチを苦笑いで軽くいなす。
そういえば、今日はやけに街に人が多い気がする。
歓楽街の道路には、普段の週末よりも路上駐車の車が多い。
なんだろうか?鼻息の荒いおっさん5人の集団とすれ違う。
おいおい、おっさん達の元気がよすぎだろ?
今日は確かに月末の金曜日だが、こんなに人が溢れていることがあっただろうか?
ジャンボ・カラオケの角を曲がって、ピンサロ・本サロ街を抜ける。
キャッチのおっさん達に盛んに声をかけられる。
が、一切無視である。俺にそんな金はない。
サロン通りを抜けて駅前に出る。
駅に向かって右側はチェーンの居酒屋が並ぶ。
店の前に、先に白いボンボリの付いた帽子をかぶり、赤い上下のスエードっぽい服を着て、顔に白ひげをつけた居酒屋のアルバイト。
駅前には電飾が施されて先端に星型の飾りに着いたもみの木。
スーパーの前には居酒屋のバイトと大体同じ恰好をして、下にミニスカートを穿き、
「クリスマスケーキいかがですかー?今なら2割引きでーす」と通行人に声をかける女性。
ここにきて、はたと気づいた。
今日はクリスマスなのだ!
このところ外に出るのは、教授に俺の怨嗟の念のこもった論文を見せに行くときと、深夜にコンビニに食べ物を買いに行くときだけだ。
そろそろそんな時期だと思っていたが、もう世の中はクリスマスになっていたのか。
スーパーに立ちよった。
総菜コーナーに行ってみると、さすがにクリスマスということもあって、パーティー用のオードブルがバイキング形式で並べられていた。
その中でもローストチキンがたくさん並べられていた。
百本はあろうかという骨付きの鶏もも肉をオーブンで焼かれたものが並んでいる様に
一羽の鶏から取れるもも肉は二本である。つまり皿の上にある骨付きもも肉二本で一対、なんとなくそこに50羽の鶏の姿を思い浮かべてみた。
少し乾いたもも肉に、かっちりと焼いて分厚い皮が
皮をよく見て見ると、人間が寒気を感じた時に「鳥肌」というように、元は鶏の羽が生えていた毛穴の様なぶつぶつが見て取れた。
俺はやけに生々しく感じた。
震え上がった人間の肌をしてしまい、それを調理したものなどをみると名状しがたい悪心に襲われるのだ。
薄暗い養鶏場で何百羽という鶏が、身じろぎ一つ出来ないような狭く窮屈なケージの中に押し込められ、同じ場所で糞を垂れ、周りと同じ餌を啄ばみ、糞と同じように卵を産み捨てる。
そのイメージがオーバーラップし、私は吐きそうになっていた。
我慢が出来なくなり、スーパーを後にした。
スーパーを出て自分の家の方角に向かうため、商店街を通ってみた。
塩と生臭さが鼻について、伏せていた顔をあげて見ると魚屋があった。
店先に並んだ赤い魚が淀んだ目で私を見つめていた。
黄ばんだ発泡スチロールの中には、年末の目玉商品であろうが、鮮度を保つためなのか湿ったおが屑の様なものをその甲羅に塗られた状態で入れられていた。
値札には「北海道産の毛がに2980円」とかかれていた。
おが屑を毛がにに塗る意味が私にはよく理解ができなかった。
公園には定住型ボヘミアンの方々。小汚い服を着た爺たちが輪になってが先ほどスーパーで売っていた鶏の屍肉を肴にワンカップを飲んでいた。
3日は風呂に入っていなさそうな脂ぎった顔に下卑た笑いを口元に浮かべ、着ているいくつも原因不明の染みの付いた黒いジャンパーの肩には、伸びっぱなしの髪の毛から落ちたフケがつもっている。なんとも醜悪な見た目である。
交差点の角にあるレストランの中をみて見ると、子連れの母親、垢ぬけた服を着た大学生の集団、
パリッとしわの伸びたスーツを着て髪の毛を油で塗り固め、目にはどこからくる自信なのか分からないが光を湛えた眼をした胡散臭いのスーツの集団、
私は社会人どこか違和感を感じる。
かん高い笑い声が耳をつんざき、癇に障ったので目線を向けて見ると、交差点では買い物帰りの主婦達が井戸端会議をしている。
中華料理屋の中をのぞいてみると
冬らしい乾いた空気が喉に引っかかる。
メインストリート
どの集団に属せず、この町の誰とも接点を持たない私には、クリスマスで豪奢に飾り付けられた町並みに馴染めない。
自分には得ることのできなかった人間たちのつながりを、まざまざと見せつけられ一人孤独を深めることになってしまった。
終わりの見えない論文、
自分は築くことができなかった人間の縁、
冬の寒さで冷えた体
家に着くころ、私の両肩に見えない力が重くのしかかり、どっと疲労を感じた。
3節 転
肩に降りた力を振り払うため空腹の腹に押し込み
しけったソファに座るとテレビをつけた。
缶詰のシーチキンにマヨネーズと醤油、七味をかけてツマミを作った。
テレビをつけてみた。
NHK教育まるで自分の心に響かない思考する必要のない画面をぼんやりと眺めていた。
紙のパッケージに入ったチョコレートを開けて一つ摘まんだ。
一向に文章が書けない。
体から平衡感覚が無くなり、後頭部の奥が地面に吸い寄せられる。
駄目だ。倒れてはだめだ。この重力に抗わなければ。
頭の中の血液がすべて首から下に吸い出される感覚がした。
倒れそうになるのを堪えるために足の位置をかえて見たが力及ばず、私はテーブルに覆いかぶさるように倒れた。
意識は首から下に吸い寄せられるようにして徐々になくなり、私は気絶した。
テレビでは見ていた番組と同じ司会者が青魚がいかに健康に対して効果的かを説明している。
気絶していたのは時間にして3分ほどだろうか、私は目を覚ました。
体にはうまく力が入らない。頭からまっさかさまに落ちたのか、額が痛い。
床には先ほどまでテーブルにのっていた空き缶や空き瓶が散乱し、飲みかけのグラスは落ちて割れ中身がカーペットにしみ込んでいた。
シーチキンの缶も逆さに落ち、油が床に染みを作っているのが見えた。
もう何もかもが面倒だ。掃除も論文も明日からやろう。
力なく腕を伸ばして部屋の電気を消し、私は転がるようにして窓際のベットにのり、毛布に潜りこんだ。
しばらく洗ってない毛布から嗅ぎなれた自分の脂の匂いがした。
なんともいえぬ温かさと安心感を感じながら、暗闇を眺めていた。
毛布のおかげで冷えた体が温まり、うつらうつらし始めていた。
「カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ」
と固いものを尖ったものでひっかく小さな音が、今日も聞こえ始めた。
心地良くまどろんでいた私の頭は、この神経に障る音のせいで現実に引き戻されてしまった。
もううんざりとして、毛布を頭からかぶって、固く目をつぶった。
待てば音は止むのだ。
「カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ
カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ
カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ」
断続的に続く乾いた音は、暗く淀んだ自分の頭の中で響きわたる。
「カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ
カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ
カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ」
私は気を紛らわせるために、昔の女のことを思い出した。
「カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ
カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ
カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ」
もう我慢の限界だった。
俺は毛布を蹴り飛ばすように払いのけ、のそりと起き上った。
カーペットに足を投げだしてベットから床に降りると、暗い部屋の中に這いつくばった。
手の感覚だけで先ほどまでシーチキンを突いていたフォークを探り当てると、のそりと立ち上がり、怒りに身を任せて暗い部屋を大股で通り抜けた。
途中プラスチックのごみ箱を蹴り飛ばす。
床に散乱したポテトチップスを踏んで、足の裏に張り付いた。
しかしそんなことに構ってなどいられない。
部屋を抜けて、街灯の明かりが薄くさすキッチン兼廊下に進んだ。
廊下から玄関のコンクリートに飛び降りると、ひんやりとした冷たさ足の裏から伝わってきた。
「カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ」と音はまだ断続的に続いている。
私は不愉快な音をたてている床をにらみつけると、夜のひんやりとした空気をすぅーっと腹にため、フォークを固く握り締めた右手を振り上げた。
「ふざけんじゃねぇぞっっ!」と雄たけびを上げながら、フォークをコンクリートに突き立てた。
コンクリートの小さな破片が顔に当たったが構わずに、怨嗟の念を叫びながら何度も何度も何度もコンクリートに突き立てた。
この町で俺に与えられた恨み辛みをコンクリートに叩きつけるように何度も何度もフォークを突き立てた。
コンクリートが抉れる感触が、固く握った右手から伝わってきた。
4節 決