情報まとめ!暇と生活

10年の北海道での山籠りを経て、中央線に舞い戻った男。鹿野おしりの街道爆裂サブカル日記。

オタクが愛を語るな問題

――人が恋をする時、それはまず、自己を欺くことによって始まり、また、他人を欺くことによって終わる。――オスカー・ワイルド

 

やぁ、こんな山の中の小屋までご苦労だね?私だ。

とりあえずその手に持った斧を下してもらおうか?俺の手に持ってるショットガンが見えないわけじゃないだろう?そうだ。そう、まずは斧を下せ。そうだ、良い子だ。

さっそくだがタイトルに挑発的な文言を並べた非礼を詫びよう。そうだこれは釣りなんだ。そこの机の上に本が置いてあるのが見えるかい?それは問題集なんだ。僕は資格習得に向けた勉強中でね。その資格というのが「愛を語る資格」についてなんだ。

ことにオタクというのは自分の行動原理に愛を取り込みたがる。愛ゆえに借金こさえてガチャを回したり、仕事休んで遠出して声優のライブに行ってみたり、アイドルの握手券や投票券に血道を上げて買い漁ってみたり、twitterや匿名掲示板でライバル作品を乏してみたり、まぁそんなことを見るにつけ、聞くにつけ、俺の中ドルバッキーは"それってホントに愛なのかにゃぁ?"と騒ぎだすのだよ。推し風俗嬢やキャバクラ嬢に入れ上げて、しまいにゃ愛まで語り始めた人間は冷笑するのにオタクのキャラ愛は受け入れてしまう人たちがいるのが、俺は何とも居心地が悪い。

キャラクターへの高まりを愛という高尚な言葉をつかって語るオタクはいずれ破滅する、というのが僕の考え方だ。ガチャで全滅したり、自分の所得以上にグッズを買い漁ったりして破滅するというのが持論である。これはオタク自身の問題というよりも、売り出す側も時流に乗っかっているのが悪いところだ。コンテンツ愛ビジネスというものが成立しているのが今だ。版元の出す公式商品は飛ぶように売れ、海賊版の製品も売れだして規制に回ったりするのは最近よく聞く問題ではないだろうか?オタクのそういった奇矯な行動を愛という幻想のベールに包んで、自分でもオタク仲間の間でも肯定してしまうのが、俺は何とも嫌で、幻想のベールを剝ぎ取りたくなってしまう性格なんだ。そこで出てきた言葉が、「オタクが愛を語るな!!!」という訳なんだ。自分のフリーキイ(異常な、突飛な)な行動を正当化するために愛を騙るという欺瞞。これはとてもじゃないが俺は許せない。あと、コンテンツ愛ビジネスとしてアイドルや声優がコンテンツを好きと語り、オタクからの好感度が上がるという現象があるが、あれも俺はいけ好かない印象を持っている。あ~ビジネスやってんなぁ~という感じだ。生駒里奈は好き。前の彼女に似てるから。

へうげものという漫画を知ってるだろうか?へうげものの最初の方で城を攻められて自分のコレクションを抱えて城から逃げ出す殿様というのがいたが、ああいう感じならばオタクもかっこいいと思う。つまり、ではなくを背負ってしまったから収集するという行動原理だ。

 

「俺はバカだ。こんなものに人生を費やしちまって

 

 こんなもん俺が死んだらゴミじゃないか

 

 本当に、本当に・・・・・俺はバカだなぁ!ハハッ!

 

 しかしだからこそ面白い!ゴミに血道を上げる!実に結構!

 

 このゴミこそが我が人生!実に業突く張りな良い人生だった!」

 

と笑って死ねる人だけが俺はオタクを続けるべきだと思うし、そういうオタクが死んだら「よく死んだ!」といって俺が骨を拾ってやろうと思っている。趣味で家督を潰してしまう系のあれね、まぁ好きにやってください。

ここで自分を翻って考えてみて、自分には愛を語るに十分足るだけの資格があるのだろうかと疑ってかかってみる。私にとってそれに相当するのはサブカル趣味、特に漫画なのであろうが俺に愛を語る資格があるのだろうか?

ここで遅れてしまったがコンテンツへの愛について定義してみよう。俺がコンテンツへの愛情として許容できるのは以下のものである。日本には伝統的な芸事がある。茶道、華道、日本舞踊、書道などである。これらの芸能で道と呼ばれる精神がある。伝統的に前の世代から引き継いだものを、先の時代へと継承していくという流れだ。今いる自分の到達点は決して自分一人で到達できたものではなく、前の時代の人の蓄積があってこそである。だからその歴史に敬意を持ちなさい。というもの。

こういう道の理論に乗っかったコンテンツへの愛情は信じられる。現代風に言い換えれば映画道、漫画道、ゲーム道、軽音楽道などとなるのだろう。一つのコンテンツを愛するというよりは、そのコンテンツの歴史、大作小作、それに関わる人たちすべて愛せよという方向性である。これは大きな愛だ。一朝一夕に成り立つものではない。こうした愛ある批評をしている人と言えばライムスター宇多丸町山智浩が思い浮かぶ。これら二人の映画批評が受けているのも愛をもって批評するというスタイルと確立しているからではないだろうか?逆に愛のないビジネスな批評で嫌われているのが岡田斗司夫だろう。これらの人たちが好かれているか嫌われているかの違いは一重に語り口に愛があるか無いかといえるのだろうな、というのが俺が今考えてることである。

まぁ、私のサブカル語りはビジネス語りであって、サブカルと寝たわけでも、漫画と一夜を共にしたわけでもないんで、あなたから好かれようが嫌われようが別にいいんですけど。ただ思いが高まって文章書けなくなってしまうのが何とも困ったところなのでもっとビジネスに寄ったブログにしていきたい。そういう話。以上

 

へうげもの(23) (モーニング KC)